【歴史クイズ(戦国編)】1507年の今日、9月13日に守護である上杉房能を急襲し、越後の実権を握った武将の名は? 

【歴史クイズ】


前回の答え: 井伊 直虎(いい なおとら)


井伊直虎は、遠江井伊谷城主(国人)の井伊直盛の娘として誕生します。

生年は定かではありませんが、天文5年(1536年)前後に誕生したのではないかとする説があります。

直虎の父である直盛に男子がおらず、直盛の従兄弟にあたる井伊直親を婿養子に迎える予定でしたが、天文13年(1544年)、今川氏与力の小野政直の讒言(ざんげん)により、直親の父である井伊直満が弟の直義と共に今川義元への謀反の疑いをかけられて自害させられ、直親も井伊家の領地から脱出、武田領の信濃に逃亡します。

許嫁であった直虎は龍泰寺(のちの龍潭寺)で出家し、次郎法師と名乗ります。

直親は弘治元年(1555年)に今川氏に復帰しますが、信濃にいる間に一族の奥山朝利の娘、おひよを正室に迎えていたため、直虎は婚期を逸すことになったとされます。

永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにおいて父の直盛が戦死し、その跡を継いだ直親は永禄5年(1562年)に小野道好(政直の子)の讒言によって今川氏真に殺されます。

直虎ら一族に累が及びかけたところを、母である祐椿尼の兄で伯父にあたる新野親矩の擁護により救われます。

永禄6年(1563年)、曾祖父の井伊直平が今川氏真の命令で天野氏の犬居城攻めの最中に急死し、永禄7年(1564年)には井伊氏は今川氏に従い、引間城を攻めて新野親矩や重臣の中野直由らが討死し、家中を支えていた者達も失います。

永禄8年(1565年)、次郎法師は還俗し直虎と名を変え井伊氏の当主となります。

しかし、小野道好の専横は続き、永禄11年(1568年)には居城である井伊谷城を奪われてしまうが、小野の専横に反旗を翻した井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)に三河国の徳川家康が加担し、家康の力により実権を回復します。

元亀元年(1570年)には家康に嘆願し、家康は道好の直親への讒言を咎め処刑します。

だが、元亀3年(1572年)秋、信濃から武田氏が侵攻し、居城である井伊谷城は武田家臣の山県昌景に明け渡し、井平(伊平)城の井平直成も仏坂の戦いで敗死すると、徳川氏の浜松城に逃れます。

その後、武田氏と対した徳川・織田連合軍は三方ヶ原の戦いや野田城の戦いまで敗戦を重ねたが、武田勢は当主である武田信玄が病に倒れたため、元亀4年(1573年)4月に撤退し、直虎は三度井伊谷城を奪還します。

その間、直虎は元許嫁の直親の遺児である虎松(直政)を養子として育て、天正3年(1575年)、直政が15歳の時に徳川氏に出仕させ、その際に直政は300石を与えられています。

晩年は、母が落飾後に過ごした龍譚寺の松岳院で過ごしたとも、自耕庵で過ごしたともいわれ、天正10年(1582年)8月26日に死去したと言われています。

家督は直政が継ぎます。





今日の問題: 1507年の今日、9月13日に守護である上杉房能を急襲し、越後の実権を握った武将の名は? ↓

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答えは次回(^-^;



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