【歴史クイズ(戦国編)】1583年の今日、9月16日に亡くなった、越前の戦国大名の名は? 

【歴史クイズ】


前回の答え: 長尾 為景(ながお ためかげ)


長尾為景は、越後守護代であった長尾能景の子として生まれます。

永正3年(1506年)、般若野の戦いで父が戦死すると、中越地方の五十嵐氏・石田氏が反乱を起こしますが、越後長尾氏の家督を継いだ為景によってまもなく平定されます。

翌永正4年(1507年)春頃に「為景謀反の気あり」と守護である上杉房能が為景討伐の準備をしていたため、8月にその機先を制して房能の居館を襲撃します。

逃亡中に房能が自刃すると、その養子である上杉定実を傀儡として守護に擁立します。

この新守護擁立に反対する阿賀北地方の本庄時長・色部昌長・竹俣清綱は、9月に為景に対して一斉に蜂起します。

この挙兵の知らせを蒲原郡代の山吉氏を通じて中条藤資から受けた為景は、蘆名氏・伊達氏に協力を要請し、本庄氏の拠点である本庄城を攻略することに成功します。

永正5年(1508年)5月には色部氏の平林城が落城し、6月、岩谷城に籠城していた竹俣氏も降伏します。

8月に為景は銭貨80貫文を室町幕府に献上し、11月6日、幕府から上杉定実の越後守護就任が正式に認められ、為景も定実を助け補うことを命じられます。

しかし、永正6年(1509年)7月、房能の実兄である関東管領の上杉顕定とその子、憲房が為景に対して報復の大軍を起こし越後に侵入します。

関東管領の軍勢は越後上田荘を拠点として、越後府中を落とし中越・上越地方を抑えた為、為景は劣勢となり定実と共に越中国に逃亡します。

為景は、越中から伊達尚宗に援軍を要請、ほかに越後や陸奥、信濃、能登、飛騨の諸将さらに幕府とも情報を交換し越後奪還の機会をうかがい、邑山寺において捲土重来を期して翌永正7年(1510年)には佐渡の軍勢を加え反攻に転じ、海上から越後蒲原津に進出します。

6月には顕定方だった上条氏が為景側に転向した為、為景は越後府中を取り戻し、ついに、長森原の戦いで退却する上杉軍に猛攻をかけ顕定を敗死させます。

その後は、越中や加賀国に転戦して、神保慶宗・椎名慶胤らを滅ぼし、越中の新河郡守護代を任されるなど勢力を拡大しますが、晩年は定実の実弟・上条定憲など越後国内の国人領主の反乱に苦しめられ、天文5年(1536年)には隠居に追い込まれます。

「上杉家御年譜」と「越後過去名簿」の資料の軽重を考慮すれば、「越後過去名簿」に従って、没年は天文10年と言われています。

揚北衆等の国人領主は統制できず、為景は彼らの上位に君臨する公権力として振舞う事は出来ませんでしたが、これらは子である晴景、謙信の課題として引き継がれる事になります。




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答えは次回(^-^;



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