【歴史クイズ(戦国編)】1515年の今日、10月2日に没した島津氏第12代当主の名は? 

【歴史クイズ】


前回の答え: 大久保 利通(おおくぼ としみち)


大久保利通は、文政13年8月10日(1830年9月26日)、薩摩国鹿児島城下高麗町(現在の鹿児島県鹿児島市高麗町)に、琉球館附役の薩摩藩士である大久保利世と皆吉鳳徳のニ女である福の長男として生まれます。

幼名は正袈裟(しょうけさ)と称します。

大久保家の家格は、御小姓与と呼ばれる身分で下級藩士で、幼少期に加治屋町(下加治屋町方限)に移住し、下加治屋町の郷中や藩校造士館で、西郷隆盛や税所篤、吉井友実、海江田信義らと共に学問を学び親友となります。

天保15年(1844年)に元服し、通称を正助(しょうすけ)、諱は利済と名乗りますが、後に改名します。

弘化3年(1846年)より、藩の記録所書役助として出仕し、嘉永3年(1850年)のお由羅騒動では父である利世とともに連座して罷免され謹慎処分となりますが、島津斉彬が藩主となると謹慎を解かれ、嘉永6年(1853年)5月に記録所に復職し、御蔵役となります。

安政4年(1857年)10月1日、西郷とともに徒目付となり、精忠組の領袖として活動し、安政5年の斉彬の死後は、失脚した西郷に代わり新藩主である島津茂久の実父・忠教(後の久光)に税所篤の助力で接近します。

万延元年(1860年)3月11日、重富邸にて忠教と初めて面会し、閏3月、勘定方小頭格となり、文久元年(1861年)10月23日、御小納戸役に抜擢され藩政に参与(去る10月7日には堀仲左衛門も御小納戸役に抜擢)、家格も一代新番となります。

文久元年12月15日(1862年1月14日)から同2年(1862年)1月中旬までの間に久光から一蔵(いちぞう)の名を賜り通称を改めます。

文久2年(1862年)に久光を擁立して京都の政局に関わり、公家の岩倉具視らとともに公武合体路線を指向して、一橋慶喜の将軍後見職、福井藩主である松平慶永の政事総裁職就任などを進めます。

同年5月20日には、御小納戸頭取に昇進となり、この昇進により、小松清廉、中山中左衛門と並んで久光側近となります。

文久3年(1863年)2月10日には、御側役(御小納戸頭取兼務)に昇進すると、慶応元年(1865年)1月下旬から5月の間に利通と改諱します。

慶応2年(1866年)、第二次長州征討に反対し、薩摩藩の出兵拒否を行い、慶応3年(1867年)、雄藩会議の開催を小松や西郷と計画し、四侯会議を開催させますが、四侯会議は慶喜によって頓挫させられたため、今までの公武合体路線を改めて武力倒幕路線を指向することとなります。

小松、西郷とともに公議政体派である土佐藩の後藤象二郎、寺村道成、真辺正心(栄三郎)、福岡孝弟、浪人の坂本龍馬、中岡慎太郎との間で将軍職の廃止、新政府の樹立等に関する薩土盟約を三本木の料亭にて結ぶも、思惑の違いから短期間で破棄します。

武力による新政府樹立を目指す大久保・西郷・小松は、8月14日に長州藩の柏村数馬に武力政変計画を打ち明け、それを機に9月8日に京都において薩摩藩の大久保・西郷と長州藩の広沢真臣・品川弥二郎、広島藩の辻維岳が会し出兵協定である三藩盟約を結びます。

この三藩盟約書草案は、大久保の自筆によって書かれたもので、現在も残っています。

10月14日、正親町三条実愛から倒幕の密勅の詔書を引き出した(ただしこの密勅には偽造説もある)大久保は、小松・西郷らと詔書の請書に署名し、倒幕実行の直前まで持ち込むことに成功しますが、翌日に土佐藩の建白を受けていた将軍である徳川慶喜が大政奉還を果たしたため、岩倉ら倒幕派公家とともに、王政復古の大号令を計画して実行します。

王政復古の後、参与に任命され、小御所会議にて慶喜の辞官納地を主張します。

明治2年7月22日(1869年8月29日)に参議に就任し、版籍奉還、廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立を行います。

明治4年(1871年)には大蔵卿に就任し、岩倉使節団の副使として外遊中に、留守政府で問題になっていた朝鮮出兵を巡る征韓論論争では、西郷隆盛や板垣退助ら征韓派と対立し、明治六年政変にて西郷らを失脚させます。

明治6年(1873年)に内務省を設置し、自ら初代内務卿(参議兼任)として実権を握ると、学制や地租改正、徴兵令などを実施し、「富国強兵」をスローガンとして、殖産興業政策を推進します。

明治7年(1874年)2月、佐賀の乱が勃発すると、ただちに自ら鎮台兵を率いて遠征、瓦解させたり、台湾出兵が行われると、戦後処理のために全権弁理大臣として9月14日に清に渡り、交渉の末に、10月31日、清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款・互換憑単に調印します。

明治10年(1877年)には、西南戦争で京都にて政府軍を指揮したり、自ら総裁となり上野公園で8月21日から11月30日まで、第1回内国勧業博覧会を開催しています。

明治11年(1878年)5月14日、馬車で皇居へ向かう途中、紀尾井坂付近の清水谷(現在の東京都千代田区紀尾井町)にて殺害されます(紀尾井町事件)。

享年49歳でした。

墓所は、東京都港区の青山霊園にあります。







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